2017年4月6日

日本で投資家が嫌われる理由―余りに大きかった「失われた20年」の傷跡と新たな希望



ウェルスナビの柴山和久代表による非常に面白い論考を見つけました。

「ポートフォリオは主菜、個別銘柄はスパイス」という運用常識に日本の投資家が真逆をいく理由(ダイヤモンド社書籍オンライン)

なぜ日本でポートフォリオを構築した上での「長期・積立・分散」投資が普及せずに、「預金+株式の個別銘柄や投資信託の短期売買+FX」という世界的に見れば“異形”の運用スタイルが一般化してしまったのかという理由をよく説明できていると思います。この指摘をさらに敷衍すると、なぜ日本で投資家が世間一般から嫌われているのかという理由も分かります。

世界的に見て資産形成・運用を目的とした投資では、ポートフォリオを構築した上で「長期・積立・分散」投資するのがスタンダードとなります。ところが柴山さんの分析したように、日本では「失われた20年」によって、国内資産にいくら「長期・積立・分散」投資してもまるでリターンが上がらなかった。リターンが上がらないのでは普及しないのは当たり前です。

そして、経済情勢を背景として投資家が取り得る合理的な投資戦略が「預貯金」であり、ボラティリティの中で利ザヤを抜く「株式の個別銘柄や投資信託の短期売買」しかなかったと言うのが柴山さんの見立てです。さらに短期売買の行きつく先としてFXという、およそ個人投資家にふさわしくない投資手法が異様に普及してしまったわけです。これは日本において投資の本来の狙いが看過され、異常な投資観を生み出したとして、柴山さんは次のように指摘しています。
「失われた20年」においてはその構造上、経済成長のパイを個人投資家が分け合うという長期的な分散投資は、成立しませんでした。パイが増えない代わりに、お互いの富を奪い合う刹那的な短期売買が定着することとなったのです。
非常に納得できる分析です。その上で感じたのは、やはり本当の意味での「分散投資」がいかに大切かということ。日本では国内資産に分散しても成果が得られなかったわけですが、それは見方を変えれば「日本」という資産カテゴリーへの集中投資であり、本当の意味での分散ではありませんでした。「失われた20年」においても国際分散投資ができていれば、また違った結論があったはずです。

しかし、この点で日本の投資家を責めるのは酷でしょう。なぜなら、一般の個人投資家が手軽に国際分散投資できるツール(インデックスファンドがその典型です)が低コストで提供されるようになったのは、ここ10年ほどのことだからです。「失われた20年」が始まったころは、国際分散投資といっても簡単ではなかった。そこに日本の個人投資家の悲劇があります。

もうひとつ感じたのは、現在の日本において「投資家」という存在が社会的に忌み嫌われる存在となった理由です。「失われた20年」においては投資とは、ボラティリティの中で利ザヤを抜くことであり、短期的にはゼロサムゲームを戦うことです。柴山さんが指摘するように、それは「お互いの富を奪い合う」行為です。つまり、投資でも「儲ける」ということは、誰かに「損させる」ことになる。そんな行為で利益を得ている人が社会的に尊敬されるはずがありません。それどころか社会の安寧秩序を破壊する害虫的存在としてさえ見られてしまうのです。こうした投資観は、現在でもかなり根強いのでは。

こうしたことを考えると、やはり「失われた20年」の傷跡はあまりに大きかったと言わざるを得ません。そして、「失われた20年」を引き起こしてしまった政府の経済失策の責任も、あまりに大きかったと思います。

一方、ここにきて新たな希望も生まれているように感じます。現在ではインデックスファンドなどを通じて、誰でも低コストで簡単に本当の意味での「長期・積立・分散」投資をすることが可能なインフラが整ってきました。政府もそれを後押ししています。今まさに、本当の意味での「長期・積立・分散」投資が普及するためのモデル作りが行われているのでしょう。

その意味で現在、インデックス投資など「長期・積立・分散」投資を実践している人の中から、きちんと資産形成・運用の成果を上げることのできた人が出てくることは、日本の異常な投資観を修正する大きな役割を否応なく負っているのだと言えます。それは本人の意思とは無関係に、歴史的な意味での使命なのかもしれません。

関連コンテンツ