2016年4月16日

人皆人に忍びざるの心有り―寄付行為に理屈はいらない



今日も熊本を中心とした九州地方では断続的に地震が発生しています。被災地の方々にはお見舞い申し上げるとともに、わずかばかりですが義捐金を送りました。わずかばかり金額ですから、べつに偉そうにすることもないのですが、こういったことを公表すると毎度、まったく交流もない人から突然「寄付行為を自慢するな」といった批判が寄せられて驚きます。人それぞれ考え方がありますから、気に食わないなら無視してくれればいいのに、そうやって反応してくるということは、きっと批判する人は、それで気が済むのでしょう。でも、それは自分の「心理的解決」と実際に起こっている問題に対する「現実的解決」を混同することであり、日本人の悪い癖です。現実に被災地ではお金が必要に違いないのですから、どんな形でも義捐金が集まる方がいいに決まっている。そう思っていったら、吊られた男さんが、問題の本質をズバリと指摘してくれました。

寄付したことを開示したい人は堂々と開示していけばよし(吊られた男の投資ブログ(インデックス投資))

私は、この意見に全面的に同意します。これが「現実的解決」を第一に考えるということです。その上で付け加えたいのは、寄付行為を公表する人に対してあれこれ批判する人は、物事を難しく考えすぎだということ。そもそも寄付行為に理屈はいりません。ただ自分の気持ちに従って“行動する”だけです。なぜなら、「人皆人に忍びざるの心有り」(孟子)だからです。

私は、孟子の性善説を信じているのですが、その考え方を表している有名な一節が『孟子』「公孫丑編」の以下の部分です。
人皆人に忍びざるの心有り。
(中略)
人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心有り。
交はりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。
誉れを郷党朋友に要むる所以に非ざるなり。
其の声を悪みて然するに非ざるなり。
是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。
子供が井戸に落ちそうになっているのを見れば、だれだって「危ない」と思って助けようとします。それは、その子供の親に取り入ろうとか、世間から評価されたいからといった考えがあるからではありません。そんな理屈を超えた自然な人情の発露として心が動く。それが惻隠の心です。そして、惻隠の心こそ「仁の端」です。

災害が起こったときに多くの人は被災者に同情します。惻隠の心が抑えられなくなります。人皆人に忍びざるの心があるからです。だからこそ、寄付したりする。そこに打算があるとは思えません。それを公表するかしないかは、たんに井戸に落ちそうな子供を助けるときに、黙って助けるか、「危ない」と声に出しながら助けるかの違いしかない。

世の中には売名や打算から寄付する人がいるという指摘もあるかもしれません。しかし、私はそんな人は絶対にいないと思う。売名や打算で寄付ができると本気で考える人は、実際に寄付をしたことがない人ではないでしょうか。実際に寄付をしたことのある人は、人が持つ惻隠の心、人に忍びざるの心の想像以上の大きさを実感しているからです。

だから、寄付行為を公にすることを批判する人は、いろいろと理屈を考えている段階で、すでに寄付行為の背後にある心の動きを理解することが難しくなっている。難しく考える必要なんかない。寄付をしている人は、自分の心の動きに素直に従っているだけだし、それを公表するのも何の作為も意図もない。とっさの叫びのようなものです。だから、いくらそれを批判したり揶揄しても、無意味なことです。

そして、井戸に落ちそうな子供を助けるときは、やっぱり叫んだ方がいい。なぜなら、自分ひとりの力では助けることができないかもしれないからです。そんな時に声を出していれば、それを聞いたほかの人も手伝ってくれるかもしれません。手伝ってくれる人も、難しい理屈から手伝うのではないでしょう。ただ、人皆人に忍びざるの心があるからです。そうやって人間社会は維持されている。だから私は、今後も寄付などをするときには、大きな声を出しながら行動しようと思っています。

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