あれは1992年だから、僕がまだ中学生のときだ。同級生(彼とはいまでも親友だ)と大阪の旧フェステバルホールで初めてロックスターのライブを見た。それがデヴィッド・ボウイだった(正確には彼が当時結成していたグループ、ティンマシーンのライブだったけど)。ボウイのキャリアの中では、あまり評価されることのない時期の仕事だけれども、比較的こじんまりとしたホールで楽しそうに歌うボウイに熱狂した。途中、バンドメンバーの演奏ミスか機材の不調かわからないけれども、曲が止まってしまい、ボウイが悪戯っぽく、でもちょっと照れくさそうに「ドウモスイマセン」と日本語で謝ってからから曲をリスタートしたことを今でも鮮明に覚えている。以来、僕の中でデヴィッド・ボウイはつねに特別な存在のロックスターだった。
バブル経済の余韻を持っていた両親の計らいで、当時の僕は分不相応にも“お坊ちゃん学校”といわれる中高一貫の進学校に通っていた。ところが僕は高校受験から解放されたことをいいことに勉強よりも洋楽ロックに熱中するというお決まりの中二病にかかる。いまから考えると不思議な時代で、当時はロック批評誌ともいうべき「ロッキングオン」が全盛期。僕はロックを聴くと同時に、“ロック語り”と“ロックについて書く”ことに熱中する。僕がいまだに長い文章を書くのが苦にならないのは、あの頃の感覚が習い性になっているからだろう。
そんな僕にとって、デヴィッド・ボウイの音楽は、いつも最高の応用問題だった。「スペイス・オディティ」を聴いたときに感じたあの不安感と奇妙な解放感は何だったのだろうか。それをいろいろと語ることはできるけれども、語りきれないものがいつだって残る。だから「アッシェズ・トゥ・アッシェズ」でトム少佐がヤク中の妄想だといわれても、そのこと自体が不思議な幻惑感の中にあった。あの神のような美声とともに。結局、彼はいつだって音楽でしか語りえないものを語ろうとしていたんだ。「スターマン」で宇宙人のメッセージがラジオやテレビを通して子供たちに届くように。
音楽でしか語りえないものってなんなんだろうか。それは、世界を変えるということことだと僕は信じていた。そして、世界を変えるというのは、自分が変わることだといまでも信じている。音楽や芸術は、ひとの認識の布置を変える。そうやって自分が変わったとき、世界は別の姿を見せる。だから、デヴィッド・ボウイの曲でいちばん好きなのは「ヒーローズ」。ポップな曲だけれども、「君もヒーローになれる」という歌詞は、いつも僕の胸に響く。そういう「社会性」をもったロックスターは、彼が最高だった。そして「レッツ・ダンス」と「チャイナガール」で西洋の傲慢さと同時にリベラルさも冷笑してしまったときに、僕たちが「ヒーロー」になるのは、ベルリンの英雄たちよりも難しいのだという現実を突きつけられる。
中学生のときと比べると、僕の中二病はだいぶ治ったけれども、かわりに大切なものも失ってしまったような気がする。ちょっとだけ、それを取り戻したくなった。そして「僕もいつかヒーローになれるのだろうか?」と自問自答する。そんなことを考えながら今、CDラックの中から久しぶりに引っ張り出したデヴィッド・ボウイのアルバムを聴き直している。
※デヴィッド・ボウイは2016年1月10日、癌のため死去。69歳。ふと手元のスマートフォンを見ると、ドイツ外務省が追悼コメントを生前のライブ映像付きでツイートしていた。
Good-bye, David Bowie. You are now among #Heroes. Thank you for helping to bring down the #wall. https://t.co/soaOUWiyVl #RIPDavidBowie— GermanForeignOffice (@GermanyDiplo) 2016, 1月 11
こういう送られ方も、やっぱり彼らしい。
合掌