なんだか正月休みも終わっちゃいますね。今年もとくに何をするでもなく寝正月を過ごしています。今年の目標などを綿密に紹介しているブロガーさんも多く、計画性の無い性分の私からすると、偉いなあと思ってしましました。さて、そんな平和な日本ですが、元日に安倍晋三首相が年頭所感ぽいツイートをしていました。
あけまして、おめでとうございます。本年は、「少子高齢化」という構造的な課題に真正面から立ち向かいます。「一億総活躍」社会という新たな挑戦です。国民の皆様の一層の御理解と御支援をお願い申し上げるとともに、本年が実り多き素晴らしい一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。— 安倍晋三 (@AbeShinzo) 2015, 12月 31
どうも最近の安倍首相の最大の政策キャッチフレーズは「一億総活躍社会」になったようです。でも、一億総活躍社会って何なんでしょうか。そう思っていたら、岡本裕明さんがブログでじつに明快な注解をしてくれていました。
2016年展望 日本編(外から見る日本、見られる日本人)
これを読んで、非常に納得しました。なるほど、「一億総活躍」って、そいう意味だったんですね。でも私は、それは悪いことではないと思いました。
岡本さんは、一億総活躍社会の意味を次のように解釈しています。
最後に「一億総活躍時代」の意味をもう一度考えてみます。日本の人口、1億2000万人のうち高卒までは勉学に専念すると計算し、除外すると実はほぼぴったり1億人になります。言い換えれば18歳以上の人は死ぬまで活躍することを意味しております。正に日野原重明先生のように104歳になっても活躍し、社会に貢献することが必要なのです。私は、岡本さんのこの解釈に全面的に賛成します。なぜなら、高齢化と人口減という構造の中で社会システムを維持する方法は、これしかないからです。日本では少子高齢化で社会保障をどうするのだといった議論が喧しいですが、この問題もすでに世界の専門家の間では最終解が出ています。それは「長く生き、長く働く」ということです。
これは我々日本人に真の意味のリタイアはもはや存在しないともいえます。会社人間は辞めても第二の人生を通じて社会に還元し続けなくてはいけない時代だとも言えます
そういう意味では、「日本人に真の意味のリタイアはもはや存在しない」のでしょう。べつに会社勤めでなくてもいいから、体が動く限りはなんらかの労働を続け、それで得た対価で消費を継続することが今後の日本人に求められる生き方のような気がします。労働の種類は多様だから、べつに生産活動に限らない。とにかく何らかのサービスを提供して、労働力を社会に還元することが必要なのです。実際にこれからの日本は、人手不足が深刻化しますから、企業だって老人に簡単に引退されたら困るのです。サービス業でも老人が働くのが普通になってくるのでは。
でも、これってそんな悪い話ではないように感じます。だって、定年退職とかリタイアって、賃労働が一般化した後に登場した歴史的概念にすぎないのだから。近代以前の人は死ぬまで労働していたはずです。昔も経済的に余裕のある人は「隠居」したけど、だいたい隠居するのは肉体的に労働に耐えられなくなったからです(現在でも士業や自営業者、オーナー経営者とかは、これに近い感覚でしょう)。あるいは、伊能忠敬みたいに体が元気なうちに隠居して、第二の人生は学問研究という形で労働・サービスを社会に提供した偉人もいます。しかも伊能忠敬の場合、あきらかに現役時代よりも隠居後の方が体力も資金も多く投入しているわけですかから、やはり推歩先生は偉かった。
日本人が死ぬまで労働して、消費する社会が到来すれば、投資や資産運用の考え方も大きく変わるでしょう。労働や消費と同じく、投資も一生続ける必要があるということです。でも、これも悪いことではありません。考えてみれば、老後資金のためなどといって無理な投資をしてしまうのは、老後に収入がゼロになるという馬鹿げた状態を前提にしているからでしょう。もし、金額の多寡は別にして、死ぬまでなんらかの収入があるなら、もっと余裕を持った投資ができるはずです。あるいは、いつまでも若々しい投資ができるかもしれません。
なにが言いたいのかというと、「60歳までに〇〇〇〇万円貯めなければ老後破産する」といった言説は馬鹿げているということ。それで無茶な投資に手を染めたり、最悪の場合は投資詐欺に遭うなどは論外です。はっきりいって、「老後資金は、これだけ必要だ」と思い込むのは、もうすでに時代遅れなのでしょう。安倍首相はじめ政府の方が、考え方は先を行っています。それよりも、一生働き続けることを当たり前に感じる感性を取り戻すことの方が日本人には必要なのでしょう。それが「一億総活躍社会」を目指すということです。
そうなると、投資とは最初から最後まで余裕資金を増やしていく作業ということになります。そして、一生働くとしても、余裕資金が多ければ自分の労働力商品を安売りしなくて済みます。場合によっては、推歩先生のように学術・文化・芸術活動でサービスを社会に提供できるかもしれません。だから、投資も死ぬまで続ければいい。投資もまた、資本を社会に還元するという意味で立派な経済活動です。そう考えると、「一億総活躍社会」というのは、じつに挑戦的なテーマのように思えてきました。