2015年8月26日

目指したい「放てば手に充てり」の境地

相場が不安定にあると、たとえリスク許容度の範囲内で投資していたとしても、やはり気持ちが“ザワザワ”するものです。そんなとき、やっぱり自分はまだ修業が足りないと思ってしまう。私は“現代人の教養”という観点から、“投資とは何か”を考えているのですが、教養=アーツ(芸)である以上、目指すべきは一種の芸道としての「投資道」であるべきです。そして、私が考えている投資道の究極目標は、「儲けたい」「損したくない」という“執着”から自由になること。でも、まだそんな境地には、とても達しそうにありません。いまだ我執にとらわれ、心がザワつく日々です。そんな凡下として、道元禅師の有名な言葉は心に沁みます。
放てば手に充てり(『正法眼蔵』「弁道話」)
これこそ目指したい境地です。




ほとんどの人は「儲けたい」と思って投資を始めるのですが、いったん投資を始めると、今度は「損したくない」という気持ちが芽生えます。「儲けたい」と「損したくない」の葛藤が投資の苦しみとなる。この苦しみから逃れる方法は何でしょうか。ひとつは、投資なんかやめてしまうことです。もうひとつは、投資を続けながら、「儲けること」「損しないこと」という考えを捨ててしまうことです。

投資とは、究極的には自分のお金を他者に全面的に委ねることです。所有権もしょせんは名目上の概念です。すべてを委ねていながら、その結果に一喜一憂することは、よく考えればおかしな話です。自分では何も影響を及ぼすことのできない事象に対して気を揉むのは無益なことでしょう。それは執着であり、自分という存在に囚われた我執です。ここに苦しみの根源がある。

すべてを委ねたのなら、思い切ってすべてを捨ててしまえばいい。「儲けたい」「損したくない」という我執をすべてを捨てたとき、「儲かる」「損する」を含めた可能性のすべてが自分のものになる。もし、投資に哲学的意味があるのかと問われれば、それは損得をひっくるめた社会全体の可能性を引き受けることだと答えたい。そこには「儲けたい」「損したくない」という葛藤も生まれず、社会の可能性の多様さを味わう喜びがあるはず。まさに「放てば手に充てり」です。

似たようなことを、もっと艶やかに詠った蘇東坡の詩にも心惹かれます。

素紈描ず意高いかな
もし丹青をつければ二に落ち来る
無一物中無尽蔵
花あり月あり楼台あり

世界は可能性に充ち溢れています。それに比べれば、「儲ける」ことや「損しない」ことなどは些細なことでしょう。そんな些細な執着我執を捨て去り、花あり月あり楼台あり、無一物中無尽蔵を味わうことができれば、素晴らしいことです。

しかし、はたしてこうした境地にたどり着けるのかどうか、私にもわかりません。それでも、私が“ほったらかし投資”というやり方が好きなのは、そこにこうした哲学的意義を感じるからなのです。私の投資道への修業は、まだまだ続きそうです。
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