2022年5月8日

いまこそロシア文学・文化の凄さが理解できるのでは


ロシアによるウクライナ侵攻以来、国際社会がロシアに対する非難を続けています。これは当然のことなのですが、ちょっと気になることも。それは、ロシア政府への非難だけでなく、最近はロシア全体への反発が強まり、ついにはロシア文学やロシア文化をキャンセルする動きすらあります。これは非常に馬鹿げた話です。逆に現在のような状況の時こそ、ロシア文学・文化の凄さが理解できるのでは。

ロシアの歴史を振り返ると、それこそツァーリ・ロシアからソビエト連邦、そして現在のプーチン政権まで、つねに圧倒的な国家権力によって支配されてきました。その凄まじさというのは欧米や日本とは比較になりません。そして、そういった圧倒的な権力と相対して生まれたのがロシアの文学であり文化です。それは、例えば現在の日本のようにぬるい環境の中で生まれた文学や文化とは根本的に強度が違う。

例えばドストエフスキーは作家として活躍する一方で、空想的社会主義サークルのメンバーになっていました。このため1849年に逮捕され、死刑判決を受けます。銃殺刑に処せられることになるのですが、まさに執行の直前に皇帝ニコライ1世からの特赦の知らせが届きます。じつは特赦は早くから決まっていたのですが、ドストエフスキーにショックを与えると同時に皇帝の恩寵をより効果的に感じさせるために、わざと死刑執行直前まで知らされませんでした。

こんな経験をしている文学者は、ちょっと他には見つかりません。しかも、死刑は特赦されたけれども結局は1854年までシベリア流刑になります。そういう経験を経てドストエフスキーの文学がある。世界に「文豪」と呼ばれる文学者は何人もいるけれども、ドストエフスキーを「文豪」というのは、やはりちょっとレベルが違う。強烈な「ロシア的なるもの」と対決しながら、その作品が生み出されました。その凄まじさは、『悪霊』などを読むとと強烈に感じます(ドストエフスキーの作品はどれも凄いのですが、私は『悪霊』がもっとも凄いと思います)。

音楽だってそうです。例えばショスタコーヴィチはスタリーン独裁の下で作曲を続けていました。スターリンによる大粛清がショスタコーヴィチの周辺人物にまで及び、彼自身も「反逆者」の疑いをかけられているさなかで交響曲第5番が作られています。この作品によって何を表現したかったのかは、いまだに議論が続いています。しかし、やはり強烈な「ロシア的なるもの」と対決しながら生み出された作品であり、異様な迫力があります(YouTubeでムラヴィンスキー指揮の交響曲第5番を聞くことができます)。


ロシアがむき出しの暴力を現した現在こそ、ドストエフスキーやショスタコーヴィチの凄さを人々はようやく実感として理解できるのではないでしょうか。いま私たちが非難しているものと、それこそ真正面から対峙しながら生み出されたのがロシアの文学や文化だからです。だから、ロシア文学・文化をキャンセルするのではなく、いまこそ玩味するときだと思うのです。

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