2019年5月7日

GW後半は実家に置いたままの蔵書の整理に明け暮れました



今年のゴールデンウィークは天皇陛下の即位などもあって怒涛の10連休だったわけですが、それもついに終わってしまいました。前半こそ夫婦そろって妻の実家に行ったり、二人で百貨店に買い物に行ったりとそれなりに休日らしい過ごし方ができたのですが、後半は私一人で自分の実家に日参でした。実家の自室に蔵書を置いたままにしているのですが、両親から「いい加減に整理しろ」とのお達しが。しかし妻からは「新居に余計な本は持ってこないで」との命令も。数百冊(古雑誌を加えると千冊近くになる)にも上る蔵書をどうすべきか、途方に暮れているのです。

もともと私は中高生の頃から本ばかり買っているようタイプだったのですが、蔵書が爆発的に増えたのが大学院生時代です。私の師匠の1人は坂口安吾研究の権威でしたが、個人で10万冊以上の蔵書があることでも有名でした(ちなみに日本文学研究の世界で個人で10万冊以上の蔵書がある人は私の師匠を含めて3人しかいないとの噂です)。その影響もあって、とにかく興味を持ったテーマに関して基本文献から雑本まで手当たり次第に古本屋で買うことが癖になってしまいました。

また、私が文学研究の業界末端にいた頃は、まだ文献は可能な限り購入して座右に置いておくのが当然という考え方が強かった。例えば、ある作家について論文を書くなら全集を個人で保有するのが当たり前だし、古典を収録した大系や叢書も必要なものは可能な限り購入して手元に置いておくという時代です。さらに基本文献と呼ばれる研究書は、たとえ高価でも購入するべしと考えられていました。

そんなわけで、本がどんどん増えていったわけです。いまだに何か新しいことに興味を持てば、関連する本を買いまくるのが毎度のパターン。このため部屋は本で埋め尽くされました。実家の自室には大型の本棚が5個あるのですが、それにも収まりきらず、今では冒頭の写真のように本棚の前に平積みに。まるで古本屋の店頭のようになってしまいました。

これを整理しなければならなくなったので大変です。何しろ愛書家は蔵書を財産と考えているので、捨てるということができない。しょうがないので、とりあえず価値のない古雑誌などは処分することにしましたが、それ以外は段ボール箱に入れて一時保存です。あとは自室にある余計な家具類(ベッドなど)を処分し、実家の自室を完全に書庫とすることを計画しています。

ちなみに、蔵書の整理をしながら、ついつい引っ張り出した本を読んでしまうのも掃除が進まない原因です。あまりに気になった本は、こっそりと新居に持ち帰ってしまいました(これは妻には秘密です)。こんな調子なので、いつになったら整理が終わるのか見当もつきません。そんな中でも、ついつい新しく本を買ってしまうのが愛書家の悲しい性なのでした。

※蔵書家の矜持と悲哀という意味では、紀田順一郎氏や草森紳一氏のエッセイを読むと、いつも胸が詰まります。

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