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2019年5月26日

『なぜデフレを放置してはいけないか 人手不足経済で甦るアベノミクス』―経済学者としての良心のほとばしりが心を打つ



経済学者の岩田規久男先生が日銀副総裁退任後、矢継ぎ早に新著を出しています。金融政策の実務に携わる経験を経て、その主張は一段とパワーアップしたようです。新著『なぜデフレを放置してはいけないか 人手不足経済で甦るアベノミクス』を読んで一層、その感を強くしました。この本は、なぜ国民経済にとってデフレが“悪”なのかを明晰に説明してくれます。そしてなにより「(「デフレなど問題ではない」と言うような)鈍感な経済学者は失業者や非正規社員の苦しみをわかっているのか」という著者の指摘に経済学者としての良心のほとばしりが感じられ、非常に心を打ちます。

日本ではいまだに「デフレなど問題でない」「デフレの方が庶民にとっては助かる」といった珍説を真面目に説く経済ジャーナリストやアナリストがいるのですが、正統経済学の立場からすると、それらはいずれもトンデモない誤謬です。そもそも資本主義というのは緩やかなインフレを前提とした経済システムであり、そこでデフレを放置すると、その矛盾が社会の様々な部分に出てくるものです。

しかも問題なのは、デフレの悪影響は社会の最も弱い人たちにおいて顕在化するということです。具体的には、それは失業率となって現れます。デフレにおいて失業率が上昇し、さらに労働者の名目賃金も引き下げられる。このため経済的困窮が理由の自殺さえ増加する。また、デフレは実質金利(名目金利からインフレ率を控除した金利)を高めますから、企業も借り入れの負担が大きくなります。やはり運転資金に占める借入金のウエートが高い中小企業ほどダメージは甚大で、新たな投資が抑制されるだけでなく倒産の増加などにもつながるのです。

ところが日本の金融政策は従来、インフレを過剰に警戒するばかりに適切なデフレ対策を行ってこなかったというのが岩田先生の従来からの主張でした(いわゆる「日銀理論」批判)。その理論の切れ味は健在で、本書でも「デフレはなぜ脅威なのか」「「失われた二十年」の原因」について明瞭に分析してくれていていろいろと納得する部分が多い。

また、日銀副総裁として金融政策の大転換を主導した立場から、現在の日銀の金融緩和策やアベノミクスについての評価も一読の価値があります。例えば現在でも反対派からは「実質賃金が低下しているのだから、アベノミクスは失敗だ!」と言われるのですが、これなどはまったく経済学のセンスを欠いた俗説です。実質賃金の状況というのは、つねに失業率の状況と合わせて考えなければならないからです。

失業率が改善すれば、まずが賃金の低い階層から労働市場に新規参入してきますから、どうしても実質賃金は下がる。逆に失業率が上昇は、パートタイマーなど賃金の低い階層から職を失っていくので実質賃金は上昇します。実際にリーマン・ショック後の失業率が高い頃は、実質賃金は高かった。しかし、失業者が多い状態で実質賃金が高まるというのは労働者が共食いしている状態ですから、決して幸せな状況ではありません。こうしたメカニズムについても本書は丁寧に解きほぐししていて、世にはびこる俗説を的確に論破していくれます。さらに統計を詳細に分析することで2012年と18年を比較すると、実は実質賃金は上昇している可能性も指摘していて、これは目から鱗でした。

そのほか、日銀の金融政策の条件とそれに対する誤解についても多くの紙数を割いていて、これは日銀副総裁として実務に携わった経験が十分に生かされているようです。このあたりは、かなりテクニカルな要素が多いのですが、十分に納得できる内容です。例えば日銀が債務超過になったらどうするのかという疑問に対して、民間金融機関では保有する銀行券はバランスシートの「資産」に計上されるの対して、日銀では発行した銀行券は「負債・自己資本」に計上されるなど財務構造が根本的に異なります。このため、そもそも不換紙幣を発行する中央銀行では債務超過の意味が民間企業と異なる。そして、実際にイスラエルやチェコの中央銀行は長期にわたって債務超過となりましたが、それでも両国のインフレ率は非常にマイルドだったそうです。この事実は本書で初めて知りましたが、非常に驚きました。

このような感じで、岩田先生は世の中に流通する俗説に対して、それこそこれでもかという勢いで各個撃破的に反論していくのですが、その行間からにじむ熱意に圧倒されました。その大本にあるのは、やはり「(「デフレなど問題ではない」と言うような)鈍感な経済学者は失業者や非正規社員の苦しみをわかっているのか」という著者の経済学者としての良心です。はたして本書の主張が完全に正しいのかを判断するだけの学術的知識を私は持ち合わせていませんが、少なくとも先生の良心のほとばしりは十分に感じることができました。それだけでも本書の内容を信じるのに値すると思うのです。現在の金融政策やアベノミクスに対する評価は様々なですが、賛成するにしろ反対するにしろ、少なくとも岩田先生が指摘しているような議論の前提は共有しておく必要があると思います。そのためにも非常に参考になる1冊でした。

岩田先生は日銀副総裁退任後に『日銀日記――五年間のデフレとの闘い』を出しています。こちらは「日記」というタイトルとは裏腹にかなり高度な内容の本ですが、やはり非常に面白い。関心のある方はこちらも読んでみるといいでしょう。



また、一般人が経済学やマクロ経済学について簡便に学ぶ際に、やはり岩田先生の、『経済学を学ぶ』『マクロ経済学を学ぶ』は優れた入門書です。こちらもあわせて紹介しておきます。

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