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2017年7月13日
「劣悪な金融商品が存在するのは、それを買う投資家にも責任がある」という理屈が成り立たない理由
投資信託に限らず劣悪な金融商品やそれを販売する金融機関を批判すると、かならず「そんな商品が存在するのは、それを買う投資家がいるから。だから投資家にも責任がある」という反論が登場します。一瞬もっともなように思えるのですが、よくよく考えるとこの理屈は成り立たないように思えます。なぜなら、こうした理屈には金融商品の売買を単に契約関係に基づく行為としか理解しておらず、そこにある信認関係を見落としているからです。そして、契約関係と信認関係を峻別できていないから、信認関係によって生じるフィデューシャリー・デューティー(受託者責任)という概念もいまひとつ理解されないのでしょう。
契約関係が対等の当事者同士がそれぞれの利益追求を前提に当事者間の合意によって成立するのに対し、信認関係は専門的知識を有する者を「信認」して依存する関係を前提とします。このため信認関係では「信認された者」に広い裁量を認める代わり「信認した者」に対する利益相反を禁じ、「信認された者」は「信認した者」の利益を専らに考える義務が生じます。これがフィデューシャリー・デューティーです。こうした「信認関係」という考え方は英米法で発生した概念です。実際に英米法では契約関係と信認関係が古くから区別されており、19世紀以前のイングランドでは契約関係の係争はコモン・ローによって判断されたのに対して、信認関係に関する係争はエクイティによって処理されてきたのです。
具体的に考えてみましょう。通常の商品売買は売り手と買い手の「契約関係」によって成立します。例えば家電製品などを買う場合、買い手は「こんな機能があって、こんなデザインで、これくらいの値段の製品が欲しい」と要求し、売り手は「それならこの製品はいかがですか。こんな機能も付いていますよ」といった具合に交渉します。売り手と買い手は対等な関係であり、最終的な売買は両者の交渉と合意によって契約として成立する。
ところが世の中には商品やサービスの提供者とそれを享受するものとの間に圧倒的な専門知識の差が生じるものがあります。医療や法務、教育といった分野です。例えば医療の場合、病気になったときに患者は医師に「この術式と薬を使って、こんな治療をしてください」とは言えません。だから患者は医師を「信認」して、すべてを「託して」治療を任せるしかありません。これが「信認関係」です。その代わりに医師は患者のために最善を尽くす義務を負う。これが医師が負う忠実義務、すなわち受託者責任です。
そして金融、とくに運用業務もまた高度な専門性が必要な分野であるからこそ、金融商品の販売は契約関係だけでなく信認関係に基づく業務とされてきました。投資家は金融商品の購入を通じて運用者を「信認」して資金を「託す」。資金を「託された」者は運用の実務に関して大きな裁量を持つ代わりに、委託者(受益者)との利益相反を避け、受益者の利益を専らに考えることが義務付けられる。これがフィデューシャリー・デューティーです。
こうした「信認関係」の意味を理解していれば、冒頭に述べたような「劣悪な金融商品が存在するのは、それを買う投資家がいるから。だから投資家にも責任がある」という理屈がいかにおかしいか分かるというものです。なぜなら金融機関が投資家に対して不利益となる商品を販売するというのは、医師が患者に対して効果のない治療を施すのと同じことだからです。医師が不適切な治療を施した場合、「そんなヤブ医者に掛かった患者が悪い」と言えないはず。不適切な治療を行った医師が批判されるように、不適切な金融商品を販売した金融機関も批判されて当然なのです。いずれも信認関係における忠実義務に反しているのですから。
これは手数料の問題にもあてはまります。例えば金融機関が顧客の利益よりも自らの利益を優先して、手数料の高い商品を薦めるというのはどういうことか。医師が自分の利益を優先して、治療効果よりも利益率の高い治療方法や薬を患者に処方するのと同じことです。どちらも批判されて当然ではないですか。いずれも受益者に対する利益相反であり、「信認」に対する裏切り行為なのですから。
こういった本質的なことが個人投資家だけでなく金融機関すら十分に理解できていないのが日本の悲しいところでしょう。確かに金融機関はコンプライアンスの遵守をとても重く見ている。しかし、実際に行われているのは、あくまで「契約関係」におけるコンプライアンスの遵守に過ぎません。「信認関係」に基づくフィデューシャリー・デューティーへの認識が足りないのです。だからいまだに劣悪な商品を作り、それを平気で売りつけるようなことが横行しているのです。そして、それは投資家の責任ではありません。あくまで「信認関係」に基づくフィデューシャリー・デューティーを全うできない金融機関の責任が問われるべきなのです。