運用が組み込まれた貯蓄性保険などは別にして、原理的には保険には個人の持分としての資産は形成されません。払込保険料は、そのまますべて支払保険金に使用され、相殺されるからです。これを「収支相等の原則」といい、相互扶助の仕組みです。しかし、実際は保険資産が形成されます。保険料の払込と保険金支払いには時差があるからです。また、前払い保険料を多めに集めることで、支払保険料を平準化しているわけです。
例えば民間の死亡保険の場合、解約や満期になると返戻金が返ってくるのは、前払いによって払いすぎていた保険料が結果として個人の持分として返ってくるだけで、本来払い込むべきだった保険料は戻ってきません。だから払込保険料総額は返戻金よりも大きくなっており、収支相等の原則には反しません。損得勘定で見れば、これは損です。しかし、自分が払い込んだ保険料は、死亡した人に支払われる保険金に充てられているわけで、それが相互扶助ということです。そこに損得勘定を持ち込んで、死亡保険が満期になったときに「今日まで生き延びたせいで払い込んだ保険料を損した」と怒る人は、頭がおかしい人でしょう。
公的年金は、一種の生存保険ですから、やはり「収支相等の原則」が存在ます。そして、すべての保険料は前払いですが、解約や満期が存在しない以上は、払いすぎていた保険料というものが存在しないことになります。森本氏は次のように指摘しています。
公的年金は、65歳まで保険料を払い、65歳から、生存を条件に、年金給付を受けるという仕組みですから、保険料は、全て、前納なのです。故に、巨額な公的年金資産が形成されているのです。
そこで、もしも、公的年金にも、任意の脱退という制度があるのならば、前納保険料は、一定の控除を経て、返戻されることになるのでしょうから、そこに個人の持分を観念することができます、しかし、それがない以上、個人の持分も、あり得ないのです。
公的年金は、国民全体について収支相等となるように設計された相互扶助制度なので、そこには、個人の持分を認め得ない、つまり、個人主義的原理は、一切、働かないのです。ですから、公的年金については、自分の保険料が戻ってこないので損だという人もいるようですが、それは、相互扶助原理に対する誤解に基づく考え方なのです。
そして重要なことは、公的年金は純数理的な経済合理性に基づいて設計されているのはなく、社会福祉政策的にも設計されているため所得再分配の要素が取り入れられていること。これは経済合理性の上では公平性を欠くかもしれませんが、社会的公平性にはかなっているというわけです。これが混乱を招くわけで、損得勘定の横行は社会的公平性という視座を欠いた結果でしょう。森本氏も次のように指摘します。
公的年金というのは、一定の経済合理的公正公平性を確保しつつも、広範に、所得再分配としての社会的公正公平性をもとりいれています。ですから、公的年金における公平性というのは、哲学的に、難解です。そこに、公平性をめぐる議論の混迷の原因があるのです。
こうなると、公的年金についての論議は、つねに“公平とは何か”“相互扶助とは何か”という政治哲学の問題となりますから、制度の在り方をめぐる議論は、純粋に政治の問題となります。社会保険料というのは、すでに一種の税となっていて、税のをめぐる論議は経済問題ではなく、つねに政治問題だからです。それは単純な損得勘定論とはまったく異なる次元の問題でしょう。
森本氏の最後の指摘は、ズバリと問題の本質を突いています。
保険料を全く払わなかった人については、今の制度の仕組みからいえば、全く給付する要はありません。それが、公平なのです。しかし、そのような人が無所得である場合、結局は、生活保護等の給付がなされざるを得ないでしょう。それは、不公平ですか。
公的年金は、もはや、保険数理的な説明によっては、保険料負担の合理性を説明することができないほど、変質していますし、周辺の関連分野との調整なしにも、成り立たないのです。公的年金の公平性をめぐる議論は、社会政策的な相互扶助全体の体系のなかで、原資としての税金の負担の問題として、政治的に決着させるほかありません。
その場合、さらに、支給開始年齢も含めた総合的な雇用政策や、高齢者医療費の負担のあり方との関連も欠くことはできません。それが政府のいう「社会保障と税の一体改革」の真の意味なのでしょう。
必要なのは社会的公平性について考えることです。少なくとも単純な損得勘定で公的年金を論じてはいけないのです。
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