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2019年5月28日

老後の“満足な”生活水準の大前提は公的年金―自助・共助を否定する者はいずれ公助さえも否定する



金融庁が金融審議会「市場ワーキンググループ」で議論する「高齢社会における資産形成・管理」の報告書案のが公開されました。現状分析から将来展望まで実に練りこまれた報告案であり、一読の価値があります。

「高齢社会における資産形成・管理」報告書(案)(金融庁)

ところが報告書案の中身の一部を朝日新聞が報道してから、ネットではちょっとした炎上騒動です(「人生100年の蓄え」国の指針案が炎上 「自助に期待するなら年金徴収やめろ」批判殺到(IT戦士ゆかたんのよもやま話))。年金制度というのはセンシティブな問題ですから、こうしたメディアによる切り取り報道は本当に有害だと感じます。おそらく批判している人のほとんどは、報告書案を読まずに勝手な解釈で吹き上がっているわけですから。報告書案をよく読めば、国は公的年金で老後の生活が賄えなくなるなど一言も書いていません。金融庁は、老後の“満足な”生活水準を維持するためには公的年金だけでは不足するので、その不足分を自助で補ってくださいということです。そして、“満足な”生活水準の大前提は公的年金の受給であることに変わりはありません。それを理解せずに「だったら年金を廃止し、掛金徴収もやめろ」などと思ってしまうのは大変な間違いで、いずれ自分の首を絞める危険性があります。さらに言うと、自助・共助を否定する者はいずれ公助さえも否定する可能性があります。

今回の金融庁の報告書案の中で特に問題のなっているのは次の部分でしょう(誤解を避けるために当該パラグラフ全文を引用します)。
人口の高齢化という波とともに、少子化という波は中長期的に避けて通れない。前述のとおり、近年単身世帯の増加は著しいものがあり、未婚率も上昇している。公的年金制度が多くの人にとって老後の収入の柱であり続けることは間違いないが、少子高齢化により働く世代が中長期的に縮小していく以上、年金の給付水準が今までと同等のものであると期待することは難しい。今後は、公的年金だけでは満足な生活水準に届かない可能性がある。年金受給額を含めて自分自身の状況を「見える化」して老後の収入が足りないと思われるのであれば、各々の状況に応じて、就労継続の模索、自らの支出の再点検・削減、そして保有する資産を活用した資産形成・運用といった「自助」 の充実を行っていく必要があるといえる。
この部分に関して朝日新聞の記事は「政府が年金など公助の限界を認め、国民の「自助」を呼びかける内容になっている」と書いているわけですが曲解にもほどがある。金融庁は公助の限界など認めてません。そもそも公的年金は「公助」ではありません。国民が掛金を出し合って老後を相互扶助するための「共助」です(「公助」は生活保護など。ただし公的年金の1階部分は公費が投入されているので一部公助の側面もある)。

そして報告書案には「公的年金制度が多くの人にとって老後の収入の柱であり続けることは間違いない」と明記されています。金融庁が指摘しているのは、引き続き公的年金制度は老後の生活水準を支える制度だけれども、それは国民が望む「満足な生活水準」ではないということです。つまり「生きていくための必要な生活水準」と「満足な生活水準」は全く異なるのです。

やはり金融庁の報告書案で詳細に分析されていますが、現在の高齢世帯の年金受給額は月20万円ほどです。少なくとも「生きていくための必要な生活水準」は確保しているというのが国の考えです。それでも生活が困窮した場合は、年金を受給しながら生活保護を受けることもできます。これが国が社会保障として提供する「生きていくために必要な生活水準」です。

しかし、実際は多くの高齢世帯が月25万円ほど支出している。なぜなら「満足な生活水準」を維持するためです。人間は生きるだけでは満足できない。満足できる老後には趣味や娯楽、教養のためのお金も必要になる。しかし、これは公助や共助の対象ではありえない。なぜなら「満足」の水準は個人によって異なるため、対象者全員に相応しい金額を算定することができないからです。だからこそ「生きていくために必要な生活水準」と「満足な生活水準」の差額は自助で賄うというのは、まったく自然な話なのです。この点に関してFPの山崎俊輔さんが分かりやすい解説を書いています。

人生100年時代に自助努力を、と国が示して怒っている人は、「一部」と「全部」の大違いが分かっていない(マネーウィズダム!)

そして、現実に現在でも多くの高齢世帯は退職金や現役時代の貯えを取り崩すことで「満足な生活水準」を維持しています。ところが長寿化によって、従来のやり方では寿命まで資産が続かない可能性が高まってきました。そこで今まで以上に資産形成による自助努力が必要になるというのが金融庁の指摘の根本です。また、そのための優遇制度も充実し、さらに資産形成のためのプラットフォームを提供する金融機関に対する指導も強化するとさえ書いています。

ここで大事なのは、「満足な生活水準」を維持するためにも公的年金は必要不可欠な大前提となっていることです。よく考えればあたり前の話で、「生きていくために必要な生活水準」を公的年金(+生活保護)が提供できないなら、そもそも「満足な生活水準」の維持などなど問題にさえならない。まさに山崎さんが指摘しているように「自分で老後に「一部備えろ」と「全部備えろ」はまったく意味合いが違う」。

こう考えると、マスコミのミスリードに乗せられて「だったら年金を廃止し、掛金徴収もやめろ」などと言うのは非常に愚かな考えだということもわかります。「年金保険料を払うぐらいなら、その分を自分で運用した方がマシ」とまで言う人もいるのですが、まず無理でしょう。報道に対して1次情報にあたらない、あたっても正しく理解できない、そして現在の公的年金制度が民間の保険商品と比較していかに有利な制度かも分からないようなリテラシーでは、自分で運用しても失敗は目に見えている。まさに老後は生活保護一直線でしょう。皮肉なことに公的年金を否定する人ほど、本物の公助に頼らざるをえなくなるのです。

逆に自助・共助を否定し、公助の役割を課題に求めることも極めて危険です。なぜなら、自助・共助を否定するような人は、いずれ公助も否定するようになる可能性があるからです。自助・共助というのは、ある意味で個人や共同体のメンバーだけが助かろうとする利己心に基づく行為です。しかし、人間は互いの「利己心」を認め合ったときに初めて「共感(シンパシー)」を抱き、恵まれない人々に対する「慈善」の感情が生じるとアダム・スミスは『道徳感情論』で指摘しました。利己心に基づく自助・共助を認めてこそ、初めて共感に基づく公助が成り立つのです。



だから、自助・共助の大切さを認めないような人は、公助の大切さも本当の意味では分からないのです。公助を過大に要求する人は、やがて公助の原資が不足するようになれば“公助を受けるにふさわしい者”の選別を始めます。それはかつてファシズムやスターリニズムの下で現実になりました。

そう考えると、老後に向けて自助努力することの意義は単に老後の「満足な生活水準」を維持するためだけではないと言えます。それは日本人が本当の意味で利己心を経た共感の心を持ち、共助と公助を維持できる「自立した市民」となるための道程なのです。今回の金融庁の報告書案をめぐる騒動には、日本人の将来を左右する精神性が問われているのです。だからこそ、そのための正しい情報提供を政府、メディア、そして市民が行わなければなりません。

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