平成年間も、あと2週間ほどとなりました。5月から令和時代が始まります。このため最近は平成30年間の日本を見直す企画が各メディアでも目立ちます。“失われた30年”という言葉すら登場するように、なんとなく悲観的な内容が多く、私のように平成時代とともに生きてきた世代からすると、なんとも寂しい感じがします。ところが海外メディアの記事を読むと、ちょっと違った風景が見えてきます。はたして平成日本は本当に“失われた30年”だったのでしょうか。
バブル崩壊とその後の景気低迷、オウム真理教事件、震災など相次ぐ災害、そして原発事故と暗い事件が多かったような平成時代。どうしてもネガティブに語られがちです。個人投資家の世界でも、いまや“日本株オワコン論”が当たり前のように語られる始末。そんな平成日本ですが、外国人から見るとまた別の風景が見えるようです。いくつか興味深い記事が目につきました。
英国人が見た平成日本、偉業を誇らない不思議=コリン・ジョイス氏(ロイター)
日本人からすると当たり前のように思える鉄道システムなどは、英国人から見ると驚異的なもののようです。そして、たしかにサッカーはこの30年で急速に発展しました。日本代表チームのメンバーのほとんどが欧州のチームに所属するようになるなど、平成が始まった頃には想像もつかなかったでしょう。そしてジョイス氏は、じつは平成の日本は安定していたと指摘します。
この国の社会は総じて安定しており、回復力と対応力を備えているとも感じていた。経済危機が、ロンドンで起きた暴動のような社会の不安定化につながらなかったことをうれしく思っていた(私が物心ついてから、大きな暴動だけでも4回起きている)。言われてみれば、確かにそうかもしれません。同じような印象を別の外国人記者も感じています。
失われた20年に「起きなかったこと」に驚く──平成は日本を鍛え上げた時代(「ニューズウィーク」日本版)
平成の30年間で日本は大きく変化し、失ったものも多かったのは確かだけれども、外国人の目から見れば「起きなかったこと」の方が驚きなのです。
日本は保護主義に走らず、それどころか徐々に外国人を受け入れ始めた。ポピュリズムの嵐が吹き荒れることも、フランスの「黄色いベスト」運動のような暴力的なデモが広がることもなかった。企業は少しずつ雇用、設備、債務の「3つの過剰」を解消し、利益率が上昇し始めた。企業も個人もより現実的になり、危機に強くなった。そして記者は、そういった日本の強さが発揮されたのが、平成最後の10年間に起こった大災害時に日本人が見せた態度だったと指摘します。「2011年3月の東日本大震災――地震、津波、原子力発電所事故の三重災害の中で普通の人々が見せた反応は、日本の社会資本、すなわち人々のネットワークの底力を世界に見せつけた」と。だから日本の将来に対しても極めて楽観的です。
過去6年、1人当たりのGDPの伸び率は先進国の平均を上回っている。経済規模ではアメリカと中国にかなわないが、独創性と勤勉さ、健全な競争が生活水準の向上を保証するだろう。今の日本は環太平洋諸国の貿易協定TPPの要であり、高齢化への挑戦で世界をリードする存在だ。もう一つ、非常に面白かった記事を紹介しましょう。見事な批評眼を持つパックンのエッセイです。
30年前と比べ、日本は不確かな未来にはるかにうまく立ち向かえる国になっている。
令和フィーバー:使いづらいものの発表にお祭り騒ぎの愛すべき日本(「ニューズウィーク」日本版)
米国での内部対立、ブレグジット(EU離脱)、ニュージーランドでの史上最悪の銃乱射事件、印パ対立、混乱するベネズエラ、世界中が激動する中、「そして日本では......新元号が決まった!」。この微苦笑を誘うような対比こそ、案外と外国人から見た平成日本の姿を象徴しています。確かに日本にも様々な問題が起こっています。しかし、そういった問題も世界的視野では、まことに小さな、じつに牧歌的な喧騒にすぎないのかもしれません。「世界は元号騒ぎをする日本をおかしく思うより、実は羨ましく思っているかもしれない」という指摘は鋭い。
激動の時代に珍しいほど揺らいでいない国だからこそ、新元号がトップニュースとなり得る。この騒動があったからこそ「令和」は昔からの伝統・文化だけではなく、和やかな現在をも象徴する大事な元号となるのではないか。こういった外国人からの視線は、日本人だけでは気づかない風景を教えてくれます。確かにこの30年間でいろいろなものが失われたけれども、同時によく耐えながら守ったものも多かったはずです。そう考えると、平成時代というのは日本が次のステージに移行するための長い助走期間だったのかもしれません。
そういえば、太宰治は『右大臣実朝』の中で「人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」と書きました。“日本オワコン論”が真剣に論議されているうちは、案外と日本も滅びないのかもしれません。そして逆に、いまはまだ一種の娯楽として消費されている“日本スゴイ論”が日本人の間で本気で信じられるようになった時こそ、本当に日本が滅ぶときでしょう。『右大臣実朝』のあの言葉の直前には「明るさは滅びの姿であろうか」とあります。
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