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2018年3月11日

『君たちはどう生きるか』―社会科学的認識と資本論入門



『漫画 君たちはどう生きるか』が販売累計200万部を突破したそうです。

漫画「君たちはどう生きるか」 累計200万部突破 出版業界に活気(産経デジタル)

ニュースを読んで、猛烈に懐かしくなりました。私は漫画版の方は未読ですが、原作の吉野源三郎『君たちはどう生きるか』には、いろいろと思い出があるからです。そして、漫画版が200万部を突破したと聞いても全く驚きません。それほどこの本が名著だからです。この本から社会科学的認識というものを学んだ気がするし、後になって気づいたのは、やはりこれが優れた“資本論入門”だったということです。そこで少し思い出話を交えながらブログでも紹介したくなりました。

本書は、新潮社が1935年から山本有三編纂で刊行した『日本少国民文庫」の1冊として1937年に発行されました。ちょうど日中戦争が始まったころですから、山本有三にしても山本の依頼で本書を書いた吉野源三郎にしても、ある種の覚悟をもって執筆にあたっています。それは、ファシズムの風潮が一段と強まる中で、子供たちだけには自由主義の種子を残しておきたいという思いです。それが本書の迫力につながっています。

主人公のコペル君は15歳の旧制中学生ですから、それぐらいの年齢の子供を対象として書かれています。しかし私が初めてこの本を読んだのは大学1年生の時でした。

当時、私は立命館大学の文学部に通っていたのですが、学部共通の教養科目に「現代の人権」(うろ覚えなので違う科目名だったかもしれません)というのがあり、なにげなく履修しました。担当教員は産業社会学部の鈴木良教授という人でした。この講義が非常に面白かった。恐らく教養科目の中でもっとも引き込まれた授業だったと思います。鈴木先生の専門は社会史でしたが、とくに被差別部落問題の研究で一家をなしていたことを後に知ります(『近代日本部落問題研究序説』『水平社創立の研究』『教科書のなかの部落問題』といった著書があります)。

その鈴木先生が、いちばん最初の講義で「大学生として勉強を始める前に、ぜひ読んで欲しい」といって勧めたのが本書でした。私は「いまさら子供向けの本でもあるまいし」と思ったのですが、鈴木先生の人柄がそうさせたのか、なぜかその日のうちに大学生協の書籍部で購入し、読み始めたのです。そして、すぐに引き込まれてしまいました。

なかでも魅せられたのは、やはり本書を紹介する人が必ず言及する粉ミルクの話です。コペル君が粉ミルクから着想して「人間分子の関係、網目の法則」を発見し、叔父さんに報告する。それを叔父さんが「生産関係」として見事に説明するところです。

岩波文庫版には、丸山眞男の「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」が附載されています。これも素晴らしい文章なのですが、丸山はこのくだりを次のように驚嘆をもって紹介しました。「これはまさしく「資本論入門」ではないか」「一個の商品の中に、全生産関係がいわば「封じ込められ」ている、という命題からはじまる資本論の著名な書き出しも、同じことを言おうとしております」。

丸山が驚嘆したように、私もここを読んだときは驚きました。そして、初めて物事を分析するときに必要な社会科学的認識というものが、どういったものなのかを「実感」として理解することができたのを今でも思えています。そして、鈴木先生がなぜ大学1年生に本書を読むことを勧めたのかも。鈴木先生は部落差別という極めて繊細な問題の専門家だっただけに、社会科学的認識を持って物事を見ることの大切さを教えたかったのでしょう。それは学問の基本です。差別に限らず社会問題というのは、個人の心性の問題に単純化していては解決しません。問題を生み出す社会・経済の構造への視線が不可欠だからです。

そう考えると、やはり本書の構成は見事です。コペル君は母子家庭ですが、銀行の重役だった父親が十分な資産を残していたようで、あきらかに上流階級に属する生活をおくっています。しかし同級生に豆腐屋の息子である浦川君が登場することで「階級」というものの存在を明瞭に示し、この階級もまた生産関係によって形作られていることを叔父さんの手紙を通じて教えてくれます。さらに、コペル君と浦川君の友情は、良心的ブルジョワと労働者の連帯の可能性という戦前のオールド・リベラリズムが夢見た理想さえも表しているのかもしれません。

階級の問題にとどまらず、社会や経済について正しい認識を持つというのは、結局のところ個人の主観をカッコに入れて物事の構造を俯瞰的に見る客観性によって生まれます。それが社会科学的認識であり、私は本書からそういったものの見方を教えられたのです。その後、私は大学で文学研究の世界に入っていくのですが、つねに社会経済学派としての立ち位置を保つことになります。それは今でも変わっていません。

ニュースを読んで、久しぶりに本棚から本書を取り出して読み直しました。いま読み直しても、初めて読んだときに感じたのと変わらないみずみずしい読後感です。そして、思いがけず鈴木先生のことを思い出しました。私が鈴木先生の講義を受けたのは前述の授業だけでした。それでもこうして思い出すのは、やはり本書の印象があまりに大きかったからでしょう。そして、そういった本を紹介してくれた鈴木先生は、やはり素晴らしい研究者であり教育者だったのだと改めて思います(調べて分かったのですが、鈴木先生は2015年に逝去されています)。

そういえば、本書がいま注目されたきっかけのひとつに、宮崎駿が次回作のタイトルに「君たちはどう生きるか」を採用したことがあります。恐らく宮崎駿も本書に強烈な思い出を持っているのではないでしょうか。そうに違いないと思っています。それもまた本書が名著たることを証明しています。だから、ぜひ多くの人に読んでもらいたいと思うのです。



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