少し前ですが、大江英樹さんのコラムを読みました。
老後の交際費は「サンカク」で 義理や見えは捨てよう(NIKKEI STYLE)
基本的に大江さんの指摘に賛成なのですが、現実問題として「サンカク」生活というのは難しい面もあります。なぜなら「個人」としては「義理や見え」を捨てるのは簡単だけど、「家」や「家族・親戚」にとっては、それは簡単なことではないからです。
記事にあるように「サンカク」というのは、夏目漱石が『吾輩は猫である』で書いた「金を作る方法」、すなわち「義理をかく」「人情をかく」「恥をかく」のこと。つまり、世俗のつまらぬしがらみなど無視してしまえば、お金は貯まるという指摘です。これは漱石的な逆説であって、お金を作ることが目的ではなく、世俗の義理から離れれば、お金の悩みもなくなるということです。
そこで大江さんは老後の付き合いは「選択と集中」が重要だとして、次のようにまとめています。
高齢期に大切なことは孤独にならないようにすること、人とのつながりを大切にすることです。だからこそ、義理や見えでの付き合いは極力少なくすべきです。本当に良好なコミュニケーションができるようにお金は使うべきだし、関係づくりに励むべきだと思います。三角術を実行することは全く問題ありません。老後の人との付き合い方は「選択と集中」があって大いに構わないと思います。
これはまったくその通りだと思うのですが、なかなか現実には難しい面がある。「個人」にとって無意味な「義理や見え」でも、「家」や「家族・親戚」にとってそれは無意味ではないケースがあるから。つまり「選択と集中」するとしても、その判断主体を「個人」に置くのか、「家」「家族・親戚」に置くのかでまったく結論が異なってくるのです。
先日、弟の結婚式がありました。当然、親族のひとりとして「祝い」を渡すわけです。いくら渡すのかは世間相場というものがあって、私はそれに従ったそれなりの金額を渡しました。世間相場など無意味だと個人的には思います。しかし、ここで「義理をかく」わけにはいかない。なぜなら、新郎の親族から祝い金がいくら集まったのかは、新婦の親族にすべて見えるのです。弟に恥をかかせるわけにはいかないと思ったのです。
私の住んでいる街はお祭りが盛んなのですが、そのために住民には「花代(寄付金)」を拠出することが求められます。もちろん寄付金ですから、出す出さないは自由。しかし、誰がいくら出したのか、誰が出さなかったのかという情報は町内で共有されます。それによって町内におけるその「家」の「家格」のようなものが決まる。
あるいは檀家寺から毎年、供養料の請求がきます。それはまだいいとして、ある時などは住職が自宅を建て直すのに「庫裏」(坊さんは名目上、家を持たず寺の庫裏に住んでいることになっている)を建て直すという名目で建築費用の拠出を求められました。それこそ奉加帳方式で、檀家それぞれの家格に応じて寄付金額が事前に定められていたりします。やはり、どの家がいくら出したのか、あるいは出さなかったのかという情報は檀家の間で共有され、いろいろと噂の種になるわけです。父親は数十万円を寄付しました。
同じようなことは生活の様々な場面で存在します。例えば子育てをしている人なら、子供に恥をかかせないための出費などがあるはず。個人的には無意味なことだと分かっていても、家族のことを思えば支出せざるを得ないわけです。そして、それは年をとってからも同じでしょう。隠居したって、やっぱり代を襲っている子供に迷惑をかけないように、否応なく交際費がかさむことがある。
こういったことは合理的に考えればバカバカしいことです。それこそ「サンカク」生活をやりたい。ところが個人がいくら「義理をかく」「人情をかく」「恥をかく」で構わないと思っていても、「義理」「人情」を欠いたときに実際に「恥」を欠くのは、その判断をした「個人」ではなく、「家」であったり「家族・親戚」だったりする。ここに交際で「選択と集中」をする難しさがある。バカバカしいと思っていても、「家」や「家族・親戚」に迷惑をかけないためには、「サンカク」ではやっていけない。それが現実の「社会」というものであり、「生活」というものなのでしょう。
たんに私が田舎者であり、あるいは長男なので「家」の面倒を見なければいけないという考えに囚われているだけかもしれません。でも私は今後も無意味な出費を続ける「義理」があると思っているからこそ、資産形成や運用に対してシビアな見方をしているとも言える。本当に「サンカク」生活ができるなら、お金なんか貯める必要はないからです。人間一人生きていくだけなら、そんなにたくさんのお金などいりません。
結局、人間は「サンカク」ならお金を作ることができるのにもかかわらず、皮肉にも「カンカク」にならないためにお金を作ろうとする。ここに日本社会の難しさがある。そういえば漱石先生の小説も同じような問題を描き続けていました。主人公が「個人」として自由になればなるほど、その反動が主人公本人にではなく周辺に及び、自由になったはずの本人が苦悩する。それこそ猫から見れば、つまらぬ問題に悩み続ける人間の姿なのです。
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