日経平均株価が2万円を超えるようになってから、はたして今から日本株を買って高値掴みにならないかという心配は、個人投資家の間でも非常に大きなものがあります。私個人としては、決して割安水準ではないけれども、バブルだとも思っていませんでした。なぜなら、日本の上場企業が資本効率や株主還元に対する認識を大きく変化させているのではないかという実感があったからです。そういった実感をズバリと指摘してくれたのがひふみ投信の最高運用責任者である藤野英人さんの日本株は、バブルではない―投資家が知っておくべき「伊藤レポート」の衝撃です。じつは一般人が知らないところで、世の中のルールが変更されているという事実を思い知らされます。
本書の冒頭で藤野さんは次のように指摘しています。
時に、世の中の多くの人が気づかないうちに経済の歴史的トレンド転換が起きてしまうことがあります。(略)日本の上場企業と株式市場が今、大きな変貌を遂げ始めているのです。この大きなトレンド転換を象徴しているのが、「伊藤レポート」「スチュワードシップ・コード」「コーポレートガバナンス・コード」という“新・三本の矢”であるというのが本書のテーマです。
伊藤レポートは正式には経済産業省がまとめた「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクト「最終報告書」のことです。とりまとめの座長を務めた一橋大学の伊藤邦雄教授の名前を取って「伊藤レポート」と呼ばれています。ようするに、なぜ日本の投資市場が長らく低迷し続けたかという原因を分析し、今後のあるべき企業と投資家の関係を提言しているわけです。
なぜ日本の株式市場がダメだったかというと、企業は株主軽視で十分な利益還元を行ってこなかった。株主は株主で短期的な利益ばかり気にする。するとますます企業は株主を軽視し、株主は十分な利益還元が得られないので、一段と短期売買による利ザヤ獲得に血道を上げるとい悪循環があったということです。
こうした悪循環を断つためには、本当の意味で企業が株主のことを考え、株主も企業の成長を長期的な視点で応援するという好循環を作る必要があります。その目安として「持続的なROE(株主資本利益率)の向上」が求められるという論理構成になっています。そのための行動指針として機関投資家には「スチュワードシップ・コード」が定められ、企業には「コーポレートガバナンス・コード」が定められました。
こうした動きが、今後の日本の株式市場に劇的な変化を及ぼすというのが藤野さんの見立てです。もはや企業が低株価、低ROE、低PBRの状態を放置することが許されなくなる。そうなれば、内部留保金などに余裕のある企業は、否応なく事業に投資するか株主還元をするしかなくなるわけです。こうした動きが市場全体で一斉に起これば、日本株市場の在り方(株価水準を含めて)が根本的に変わってしまう可能性があるのです。
私は、この藤野さんの見方に全面的に賛成します。その理由として、ここからはやや個人的な体験を紹介します。じつは私は本業の関係である業界の一部上場企業トップに定期的に話を聞く機会があるのですが、昨年あたりから彼らの話の内容が劇的に変化しました。全員が真剣に自社のROEを高め、株主還元を充実させようと必死になっている様子が分かります。なぜ急に変貌したのか。それほどお上の意向というのは大きな影響力を持つのでしょうか。
じつは理由はもっと人間臭いものです。近年、米国の大手議決権行使助言会社であるインスティテューショナル・シェアホルダー・サービシーズ(ISS)が5年平均でROE5%未満の企業の取締役選任決議に反対するように助言することを決めました。この影響力は大きく、実際に多くの低ROE企業の経営者が株主総会で過去になかった数の取締役選任反対票を食らっています。これが企業トップには効いた。反対票が多いと、いわば株主総会という公衆の面前で恥をかかされるわけです。さらに同業他社のトップとの比較もある。サラリーマン社長といえどもトップとしての自負があるので自尊心が傷つく。他人の評価が気になる。同業他社のトップと比較されるとますます気になる。すると、なんとか自社のROEを高めようと必死になるわけです。事業戦略にも変化が表れました。私が関係している業界は、どちらかというと斜陽産業といわれる分野ですが、不採算事業に対する姿勢が一段と厳しくなっています。M&Aにも積極的になりました。
経営者のマインドが、明らかに変化しています。その背景には、いかににも日本のサラリーマン社長らしい横並び意識とある種の自己保身があるのですが、こういった利己主義をバカにしてはいけない。利己主義こそ近代資本主義の大前提だからです。それだけに現在起こっている変化は、もう押し止めようのない勢いを持っているとも言えます。なにより“きれいごと”だけでなく、企業トップの自尊心という大きなエネルギーが込められているのだから。
しかし、たとえ経営者の自己保身があるとしても、ROEを持続的に高めるためには、例えば人材育成による生産性向上など長期的な視点に立った企業運営が必要です。取引先と良好な関係を維持しなければ資本効率に優れるサプライチェーンも構築できません。つまり、従業員を使い捨てにしたり、下請け叩きをするようなブラックな経営手法では持続的なROE向上は実現できないのです。面白いことに、経営者が自己保身という利己主義に基づいて行動することによって、産業界全体では“きれいごと”がまかり通るようになる。これこそ「神の見えざる手」であり、伊藤レポートが目指す「好循環」ともいえるわけです。こういった視点も藤野さんは見逃していません。
藤野さんの今回の著書が指摘していることは、私が実感していたことと完全に一致します。私なんかとは比べ物にならないくらい多くの企業トップに直接会って、意見交換している藤野さんだけに、もっと強烈に感じているのでしょう。一般庶民が知らないところで、企業の在り方、株式市場の在り方が根本的に変わってしまう予感を濃密に感じ取っているのです。それは、知らないところで世の中のルールが変わってしまっているということです。ルールが変わったことを知らずにゲームに参加すれば必敗です。これは投資だけに限りません。そして本書は、どのように世の中のルールが変わったのか。新しいルールの中で投資するためには、どのように考えるべきなのかということを丁寧に解説してくれています。投資をしている人もしていない人も、一読すべき1冊だといえるでしょう。ルールが変わったことを後から知って、泣きを見るようでは切ないですから。
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